先月末のイラン急襲は、世界の分断をさらに大きく深く拡げる愚行でした。
主犯の2国はもとより、その後の我が国の立ち回りときたら目を覆うばかりで、中野好夫の「もはや戦後ではない」が別の意味に変わりつつあります。
かつて、吉田健一はこう云いました。
戦争に反対するもつとも有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度とふたたび……と宣伝することであるとはどうしても思えない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人たちも、見せ物ではない。古きずは消えなければならないのである。
戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだわつてみたところで、だれも救われるものではない。長崎の町は、そう語つている感じがするのである。
(『長崎』)
この文章からだいぶ時代が進み、「復興」の段階はとうに過ぎ、そして戦争の体験を語る人たちの多くは世を去ってしまいました。
気がつけば、お上から民草まで、軍備増強や戦争を煽る言説が当たり前のように幅を利かせる世の中になっています。
ひょっとしたら、もう生活を美しくして執着するだけではどうにもならない段階まで来ているのかも知れません。
だからこそ、いまはこの言葉をそのまま金科玉条として受け取るのではなく、戦争の「古きず」をあらためて直視すべきなのでしょう。
が、「古きず」を直視することと、生活を美しくして執着することは、二者択一ではなく、両立し得るもの。
そんな日々の生活に目を向けさせるコートです。
ユーモラスなほどに大きなファスナーなど、服の形そのものは先月、ANTI-WARの戦闘服としてご紹介したミリタリーコートとまったく同じ。
しかし生地が変われば雰囲気も変わります。
この生地の最大の特徴は言うまでもなく柄ですが、いったい何柄なのか、強いて言うならば「生活の柄」でしょうか。
そして日々の生活のなかで出される「ゴミ」、それをつつく「鴉」まで描かれています。

「ゴミ…?」と驚かれる方も多いでしょうし、当然の反応ですが、ゴミはそれ自体が悪しき存在ではなく、我々が生活していると必ず生まれるもの。
すなわち、生活と不可分というわけです。
ゴミをゴミとして邪険にするのではなく、新たな視座から見つめることで、自分自身の生活に向き合える、written byならではの発想です。
日常の生活だって必ずしも愉しいことばかりではなく、いろいろなアクシデントが起きるものですし、起きなければそれはそれで退屈だったりするかも知れませんが、そんな日常の生活の尊さを、失ってから嘆くわけにはいきません。
青臭くとも不格好な形でも、我々の生活を奪う存在には抗っていきましょう。
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